畦道日記

大海臨まず畦の蛙 草場の陰で薄ら光る

今日も幸せだった猫

母の知り合いから聞いた話ではあるが、野良猫の世話をしていた女性が感染症を発症したと言う。


その人の症状は、後頭部の右側辺りの片頭痛のようなものだったとか。


実は私も一月前から同じ症状があるのだ。


今まで頭痛薬など飲んだことがなかったのに、最近はよく服用している。


気付いたらズキズキ、チクチクする。


外で生きる猫は色んな菌を持っていると言うが、私の様に体の免疫が低い人は特に注意したほうが良いと思う。


通い猫にご飯をあげる時は、すぐそばで見守っているだけなのだが、その後何となく顔が痒いような気もする。


花粉や黄砂にも敏感に反応する皮膚なので、何かしら他の原因もあるとは思う。


そんな自分の健康問題も気になる所ではあるが、こちら側の都合で産み月の猫をTNRさせたのだし、餌とトイレと休憩場としてこの猫の最後の日が来るまで面倒を見る。
と言うか最後の日まで来てほしいと願っている。


この子はあまりにも外の世界に居過ぎているので、人間との暮らしに馴染めないのではないかと、この先に進む勇気がない私の無責任さを認める。

身ごもっているシー坊、眠い。


野良猫社会は厳しいようだが、束の間の幸せはきっとあるはずだ。


これは飼ってあげられない自分の後ろめたさを都合よく、ない事にする言い訳に過ぎないが。


最近、人間は怖い生き物だと改めてそう感じる。


人間は言葉を操ることが出来るがために、いろんな綺麗事で自分を慰めたりする術を持っているのだ。


しかし二足歩行の動物として本能レベルで感じる事がある。
冬の寒さを乗り越えて、春の息吹をめいっぱい感じる事が出来るのは野良猫人生の醍醐味ではないか?
私でさえ、山菜採りに土手をよじ登って春の柔らかい風を頬に感じるだけで生きている実感がどこからともなく湧いて出てくる。


それは毎年感じる不思議な感覚で、言葉で言い表す事が難しい。
その時吹いた一瞬の風の匂いや、花びらが散る情景があまりにも愛おしく感じるのは何故だろう。
きっとそれが手に取って大事に仕舞っておく事が出来ない、幸せという感情だからだろう。



外の猫達はそんな事は当たり前の日常に過ぎない。
人間には見えていない世界に生きているのだ。


この猫は私の裏庭に来ては、餌をたらふく貰って嬉しいと言ってどこかに帰る。


短い命の灯の中で、不意に現れては消える一瞬の幸せだけを噛みしめて今日もどこからか来て、どこかへと帰る。
裸一貫、持ち物もなく、余ったご飯をポケットに隠し持って行こうなんてせずに。

裏庭で日向ぼっこ中のシー坊

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